ましろ blog

~自己完結型ADHD人間の生態と備忘録~

もう私は見放されてるんだと思う

本が読み進められないまま、ダイエットもうまくいかないし、ちょっと前向きになって出かけようとしたら邪魔が入るし、小さな事でももう駄目だって落ち込んでいる。

自分を受け入れられないまんまでいる。カウンセラーには「 もともとましろさんは自分を俯瞰で見てるようなところがあったけど、最近はそれに磨きがかかってきたというか・・・」と言われたが、それがいい意味なのかは分からない。

私は「誰かの為に何かをしなければ」受け入れられない人間だと思う。

障害者の当事者会で、クリスマス会をすることになり、そこの飾りつけを任された。

会場は私がボランティアで清掃に入っているので、去年の会の時もささやかだけれどテーブルクロスを用意したり花を飾ったりした事を職員が覚えていてくれたのだ。

頼まれて、嬉しかった。役に立てることがある。だけど。私はそうやって安心したいのかなとも思う。そういう事がないと、自分が意味のない、ただ生きてるだけの人間に思える。昔から、家事はできたけど、一人暮らしになったら途端にできなくなった。

家族と住んでいる時はそれでも主婦の役回りをしていた。炊事洗濯、町内会の班長、諸々。知り合いからは「いい奥さんになれるよ」と言われていた。私はそれをいい意味には受け取らなかった。依存的であるということの自覚があったから。献身的な事とは紙一重だと私は思う。それで、自立しよう、他人と一緒に暮らすのは多分無理、せめて自分の事ができるようになってから・・・と思っていたら、鬱になって障害が分かって、入院して。「ああ、やっぱり私は一人で生きていくんだ」って思って。

相手と出会っていくらか頑なな心は解けたけど、一人になってまた「やっぱり」と思う。私は倒れたままの重たい石で、ささやかな嬉しいことでは持ち上がらない。

「すこしづつ」「一歩ずつ」とは言うけれど、自分の年齢を省みて「もうそんなことをやっている場合じゃないのでは」と思う。じゃあ、何か自分で大きく変えられるのかと言えば、それもできずにくすぶってる。もう遅いのかもな。それもしょうがない。よくわからないけど、障害を持って機能不全家庭に生まれたことそのものがマイナスからのスタートだ。もう分からない。俯瞰してみててもわからない。もう無理なのかもしれない。心が動かない。