ましろ blog

~自己完結型ADHD人間の生態と備忘録~

気遣いどころが違う。全然違う。

私が「気を使っている」と思っていることのほとんどは、その必要がないらしい。

それ、本人に言ったの?聞いたの?確認取ったの?と言われる。いやだから、気を使ってるからそれは・・・「だから、そこは気使うところじゃないんだよ!」って突っ込まれる。はて。はて?私の気遣いはどこで間違えてるのか??元をたどってみると、どうも家族環境のようだ・・・。両親は毒親、そして視覚障害者。見えないので、親の代わりに目となり手足となり、子供の頃からフォローをしてきた。親はあーだこーだと指示してきて、その通りに動いてたというわけで。毒親の元から自立することを許されなかった身(それでも逃げたけど)は、先の先の先を読んでフォローしないと、世話しないと、叱られてた。気を回すのとは違う、毒親の理不尽で気分屋な空気を先読みして文句言われないように準備していた名残りのよう。間違うと叱られる。人前でも怒鳴られる。恥ずかしい。悔しい。悲しい。でも、それって表には出せない感情で。

「ご両親の支えになって、立派な娘さんね」って言われるから。頑張らないといけない気がしていたし、障害のある親を悪く言うなんて、という(今なら違いがわかるけど)抑圧っていうか。我慢することばかり覚えた。迎合することを身につけた。下手に出てやり過ごすことばかりに神経を使っていた。がーん。ほんとに、本当に私の思っていた、していた気遣いって、対親でしか通用しない、無駄なものだったんだなあ。